家に着くと、珍しく鍵は掛かったままだった。

 

――梓、まだ帰ってないのか?

 

 常日頃から帰るのが夜遅い父ならばともかく、基本的に部活がある日の帰りは梓が一番早い。

 場合によってはそこに椎乃とかのオプションがついてくるわけなのだが、どうやら今日はそれすらもある様子は無い。

 

 珍しいなとは思いながら、だけどたまには久々に一人で過ごす夜もいいかもしれない、なんて無駄に変な考えを抱きながらも家の鍵を開け、玄関の扉を開き――。

 

 

 

「「お帰りなさいっ、お兄ちゃん!」」

 

 

 

 ――自分を出迎えた、あるはずの無い二つの声と台詞に、歩は大きくすっ転んだ。

  

 

 

 MEMORY6 過去の傷痕

 

 

 

「で?」

 

 語調を強くし、ソファーの上に正座する二人を見下しながらたった二文字だけを歩は告げた。

 軽く微笑みながらも物理的重圧を伴うんじゃないだろうかって思えるぐらいの空気を背に纏い、そのたった二文字に全ての問いを込め、二人へ投げ掛ける。

 本来ならば如何なる状況でも我が道を行くはずの椎乃までもがそこに正座し、冷や汗を流すにはとある理由があった。

 

 先の出来事――発案はやっぱり椎乃だったのは言うまでも無いが――そこであんな事態に発展してしまったのは神様の悪戯か悪魔の施しとしか言いようがない。

 歩を出迎えた二人は、一体何を考えていたのか近所にまで聞こえる大声量であの台詞を言い放った。

 当然、この時間帯ともなれば大半数の家には住民がいる。

 故にその台詞が隣近所に聞こえてしまっても仕方の無いことで。

 つまり、歩は一瞬にして『友人に自分をお兄ちゃんなどと呼ばせている』なんて微塵もありがたみを感じないレッテルを貼られてしまったのだ。

 

「何か、言うことは?」

 

 いつまで待っても言葉が出てこない二人に対し、歩は仕方なく次なる問いを投げ掛ける。

 その問いに二人は小さく身体を震わせると、上目遣いに歩を見る。

 

 が、残念ながらそんな視線は既に受けなれているために、その程度で歩の怒りは収まらない。

 

 それを二人もすぐに悟ったのだろう。

 諦めたような表情で俯き、小さな声で二人同時に一言。

 

「「ごめんなさい……。お兄ちゃん」」

 

 とりあえず、二人は夕食抜きの刑――椎乃がこの時間にここにいる時はそれが目当てなため――に処されたと記しておく。

 

 

 

 

 

 

 不意に、何かが割れるような大きな音とともに二人分の短い悲鳴が聞こえた。

 現在この家にいるのは自分を除いて二人。

 そしてその二人は今皿洗いをやっているはずだから、その音と悲鳴の理由はすぐに判断できた。

 

「椎乃……いや、梓か」

 

 恐らくは皿でも割ったのだろう。

 で、そんなドジを踏むのはどちらかといえば梓の役目。

 どういうわけか椎乃がそういったミスをすることは無い。

 良くも悪くも何気に抜かりが無いのだ、あの娘は。

 

 階下が慌しい。

 あの様子ならば怪我の一つでもしたのかもしれない。

 

「救急箱は……リビングか」

 

 となればもとより過保護気味な歩がじっとしているはずは無く、それの場所を思い返しながら読んでいた雑誌を閉じて自室から出、一階へと向かった。

 

 のだが――。

 

『う、うわぁちょっと歩ちゃん待った!!』

「……?」

 

 歩が降りてくる気配を察知したのか、何故か梓の声が上がる。

 

『あー、歩。気にしなくていいよ。ただ鍋に入れてた水が零れて梓っちがそれを被って服が透けて白の下着が丸見――むぐ』

『どんだけ懇切丁寧に説明してるのしいちゃんっ!?』

 

 わいわいぎゃーぎゃーと途端に騒がしくなる扉越しのキッチン。

 個人的には状況が分かり、入らなくて良かったという思いも浮かんだのだけど。

 

――……もう二、三枚割れるんじゃね?

 

 そんな不安を抱かずにはいられない。

 せめて食器棚とか結構破壊されるとマズい物にだけは被害を与えないで欲しいものだが――現実は、そう甘く出来てないらしい。

 

『――っ! マズッ! 歩、ごめん来てッ!』

 

 まぁ、つまりは初めからそうなることぐらいは予想が付けれたのだ。

 もちろんだからといって落ち着いていられるはずも無いのだけど。

 

「っとに、騒がしいったりゃ無いってのっ!」

 

 扉を開け放ち、キッチンに飛び込む。

 そしてその目に飛び込んできたのはやっぱりと言うべきか、何かの衝撃で開いてしまい、今まさにその中身をぶちまけようとする食器棚。

 

「おいおい……っ!」

 

 が、実際にはかなりその状況はヤバイ。

 何がやばいって、その真正面にいたのだ。

 

 梓と椎乃の、二人が。

 

 椎乃は咄嗟の判断か梓を庇うようにしていたけれど、落ちてくればその程度で防げるレベルではない。

 かといって離れるにも、地面には割れた皿の破片とこぼれた水が大量にあり、動けるような状況でもなかった。

 つまりはどうあっても歩がそれを止める必要があった。

 

「こ、のっ!」

 

 持ち前の瞬発力を生かして、歩はその位置から一気に跳躍。

 開いていた食器棚の扉の一つを閉じることに成功。

 だがもう一つからは既に手遅れとなった皿が数枚、椎乃へ向かって襲い掛かっていたのだが――。

 

「っ!!」

 

 勿体無い、何て思う暇は無い。

 いやそれ以前に、彼女達の身体の方が何百倍も大切だった。

 故に歩は――その皿を空いていた足を使って、椎乃達から少し離れた床へと蹴落とした。

 多分それが当たったのは偶然に近かったのだろうけど、結果オーライ。

 そして残る皿は、もう一つの扉を閉めるのに間に合って散乱を防ぐことが出来た。

 

 ……まぁ、食器棚の中は凄惨な光景となっていたが。

 

「怪我、無いか?」

 

 とりあえず、二人へ向かって歩はそう問い掛けた。

 

「……ごめん、歩。今のは本当に助かったよ」

「あ、歩ちゃん……ごめんなさい……」

「いや、二人が無事で何よりだ。それよりも立てるか? 破片もあるからそこは危ないだろ」

「私は平気。梓っち、動けるよね?」

「うん……。歩ちゃんのおかげで怪我も無いし」

 

 二人は足元に気をつけながら、破片の散らばったキッチンからゆっくりと出て行く。

 だがその二人の背中を見、歩は表情を歪めて、言う。

 

「それと、梓。……お前は風呂にでも入って来い。その格好のままだとまずい」

 

 騒動のせいで完全に忘れていたが、今の梓は全身がびしょぬれだった。

 そのせいで服は透け、その下にある肢体のラインがくっきりと表れてしまったのだが――。

 

「……あ」

 

 歩も梓も椎乃も、気付いた点はそんな所では無かった。

 三人が注目したのは、もっとそれよりも重くて痛々しい、梓の背中にくっきりと表れたそれ。

 

 本来であれば常に隠しているはずの、右肩から背中の中心近くまでに走る、大きな傷痕だった。

 

 さぁ、っと。

 目に見て分かるように梓の顔から血の気が引いていく。

 

「……梓っち、お風呂行こう。私もついでに一緒に入るから」

 

 その梓の背中を押し、椎乃はこちらに一度だけ目配せをするとそのまま風呂場へと向かいキッチンを出て行った。

 それを見送ってから、歩は物置から箒とちり取りを取り出し、散乱した皿の破片の掃除に取り掛かった。

 

 あの傷は、七年前の事故で梓が負ったものだ。

 梓の母親が咄嗟に梓を守ろうとして、その結果、あの事故での傷は奇跡的にあれだけで留まった。

 あの傷で奇跡的だ、というのだから、当時の事故の凄惨さは言うまでも無い。

 そしてそんな事実があるからか、彼女はあの傷を見る度にそれを思い出し――一種のトラウマとなってしまっていた。

 だがそれは梓だけではない。

 守られたのは、歩とて同じなのだ。

 彼女が背中に傷を負ったのに対し、歩は右脇腹に大きな傷を負った。

 歩は記憶がほとんど無いせいかそれが今でもトラウマ、というわけではないのだが、やはりそれを見つ度に気分が悪くなるのは確かだ。

 故に歩も梓も、この傷は出来るだけ普段から隠すようにしているのだが……まさか、こんな形でこんな事態が起こるとは想定外にも程がある。

 

 椎乃はその事実を知っているため、梓に付き添ってくれたのだろう。

 梓一人では、きっと耐え切れないから。

 

 そんな心遣いが、今は何より嬉しかった。

 

 

 

 割れた皿と食器棚内の整理を終えて、歩はソファーに腰掛けて一息ついた。

 幸いなことに被害にあった皿は少なく、今日明日に買いに行かなければならない、ということは無さそうだった。

 だが、近いうちに買い直す必要はあるだろうから、その時の苦労を考えてため息を一つ。

 別に梓を責めているわけではないが、やっぱり家事をこなす以上はそういうことも考えてしまうのだ。

 

「お疲れ様、歩」

 

 そんな歩の肩を叩き、椎乃が姿を見せる。

 

「そっちもな。……梓は?」

「無理矢理に寝かしつけたよ。結構、ダメージは大きかったみたい」

「だろうな……」

 

 ただ傷を見るだけならば、梓も顔色を少し悪くするだけであそこまでにはならない。

 だが、状況が悪かった。

 

 守られる梓に、梓を守った椎乃。

 その椎乃に母親の影を重ねてしまったのだろう。

 故に必要以上に意識をしてしまい、そのダメージは中々深いものとなったというところか。

 

「椎乃、悪いけど――」

「うん。今日は泊まっていくよ。今の梓っちは放っておけないし」

「悪いな」

「今更、でしょ? 私は私で、君達には助けられてるんだから」

 

 さすがに梓も目を覚ましてからも引き摺るということは無いだろうが、可能性が無いと言うわけでもない。

 その時のためには、やはり一人は梓の傍にいて欲しかった。

 だが自分ではさすがに無理があるので、それを椎乃に頼もうとしたのだ。

 

 だが、それを言う前にこちらの意図をすぐに読み取ってくれる椎乃には感謝するしかない。

 普段は軽い調子の彼女だが、こういう時には何よりも頼りになる。

 

「とりあえず家に電話してくるよ。今日はこっちに泊まるって」

「あぁ、分かった。俺は風呂に入ってくるから、終わったら適当にくつろいでおいてくれ」

「ん、じゃあ遠慮無く冷蔵庫でも荒らさせてもらうよ」

「……朝飯も抜きにしてやろうか」

 

 冗談だよー、と言ってリビングを出て行く椎乃に苦笑する。

 

――まぁ、簡単に食べれるものぐらいは出しておいてやるか。

 

 そう言ってキッチンに足を進める辺り、どうにも甘い歩だった。

 

 

 

 

 

 

 自分の脇腹にある深い傷痕を、歩はそっと撫でた。

 当時の記憶は殆ど無いのに、この傷を意識すると決まって気分は落ち着かなくなる。

 当時のことが記憶に無くても、身体は覚えているのかもしれない。

 

――梓と同じにならなかっただけマシか……。

 

 もし自分までがこの傷をトラウマにするようであれば、自分がいざという時に梓を支えることが出来なくなってしまう。

 彼女の抱くそれは、本当に精神の不安定化を招いてしまうほどに深く根付いているのだ。

 それは到底、一人で耐え切れるようなものではない。

 

 そんな考え方を持っているからか、歩は幾度も自問したことがある。

 自分はあの時のことを思い出さないべきなんじゃないか、と。

 

 梓の持つ心の傷は、それこそ時間の経過で癒えるものではない。

 だからといって、他にその傷を癒せる何かがあるわけでもない。

 故に思ってしまったのだ。

 

 自分が思い出してしまえば、梓を支えることが出来なくなってしまうのではないかと。

 

 もちろん周りの反応と言えば、『思い出して欲しい』だった。

 一年と数ヶ月程の時間は、決して短い時ではない。

 だからその間に起こった出来事も当然多いわけで、学校での友人や親戚などはそれを思い出してくれることを願っていたのだ。

 

 所詮記憶などは自分の意識下で管理できるものではない。

 思い出される時には思い出されてしまうのが事実なのだが、それでもやはり考えてしまうのだ。

 ただ一人、掛け替えのない存在である少女のために、この記憶は取り戻さない方がいいのではないか、と。

 

――梓は……どう思ってるんだろうな。

 

 実の所、歩は梓にこの質問をしたことがなかった。

 本人に訊けば確かにそれは一番早いことかもしれないだろう。

 

 だが……歩には分かっているのだ。

 

 梓が優しいこと。

 

 故に彼女は、『思い出さないでいて欲しい』何ていう言葉は絶対に言わないことが。

 歩が知りたいのは、その本心だけだ。

 優しさというオブラートに包まれた答えを求めたくはない。

 だから、ずっと歩はそれを訊けずにいた。

 梓との間に変な間があるわけではない。

 だとしても、今のままでは梓はそれを教えてはくれないだろう。

 

 それが、彼女の優しさなのだから。

 

 

 

「うぁ……」

 

 馬鹿をやった。

 ふらふらする頭を抑えながら、歩は横になったソファーの上で思った。

 

 考えに考えを重ねてしまっての思考の連鎖。

 それに陥ればなかなか抜け出せないのは当然のことだったのだが、先の出来事もあったせいか歩はそれをすっかり失念していた。

 そのために歩は、必要以上に入浴をする結果となり――まぁ、簡単に言えば逆上せてしまったのである。

 

――本当……。

 

「馬鹿だねぇ」

 

 遠慮の無い言葉と共に、歩の顔に影が落ちた。

 今この家でこんな台詞を吐くのは、決まっている。

 そんな奴は一人しかいない。

 

「やかましい……。考え込んでたんだよ」

「そんなになるまで?」

「悪いか……」

「……梓っちのことかな」

 

 まるで歩の考えていることなどお見通し、と言わんばかりに返された。

 いやもはや語調が問いではなく断定である辺り、完全に見通されてしまっているらしい。

 

「そういえば……お前にも訊いてなかったっけな」

「うん? 何を?」

 

 確かに椎乃は自分の心配をしてくれる。

 だが――彼女の口からそれを聞いたことはただ一度とて無かったのだ。

 もちろんそれも理由がないわけではなく、彼女は直接自分に関係があるわけではない。

 だからこの質問を椎乃にするのは間違っていると思っていた。

 

 逆上せていたからかもしれない。

 そんな自分の考えをすっかり忘れて、そんな質問を投げ掛けてみようと思ったのは。

 

「椎乃は、俺の記憶が戻った方がいいと思うか?」

「……ぇ」

 

 『それはもちろん』と。

 いつもの椎乃と変わらぬ明るい声でそう返ってくると思っていた。

 しかし帰って来たのはそうではなく――いや、正確には何も帰っては来なかったのだ。

 ただ一つ、椎乃の小さな呟きを除いては。

 

「……椎乃?」

 

 思わずその横顔を見る。

 そして――絶句した。

 

 椎乃が、泣いていた。

 

 瞳にうっすらと涙を溜め、それが頬を伝って顎へと流れ、零れ落ちて歩の頬へと落ちる。

 そんな一区切りの動きを見てから、歩はやっと現状を理解することに成功する。

 

「大丈夫、か?」

 

 何が原因かは分からなかった。

 だが、あの椎乃が涙を流すなんてことが普通ではないことぐらいは分かる。

 

「あ、あれ……。何で涙なんか」

 

 しかし当の本人もが、自身の流す涙に気付き、驚いたような表情を浮かべた。

 無意識で無自覚に、涙は流れていたのだろうか?

 そんな馬鹿な、と思うが、その証拠がここにある。

 現に彼女の表情には誤魔化すような挙動を感じることは出来ない。

 本当に、自分自身がその涙に驚いているように見えた。

 

「うわ恥ず……。ちょっと、歩こっち見ないでよ!」

「は? や、でも――」

「いいからー! 女の子の涙はタダじゃないんだぞー!」

 

 それもなんか違う気がするが、ぐいぐいと体を押し付けられて仕方なくうつ伏せになった。

 何か理不尽な気がするが、でも確かにあのまま椎乃を見ていたところで、情けない話だが自分に何ができるはずも無いのも事実だった。

 

「あぁもう……弱いなぁ、私」

 

 だから彼女がぽつりと呟いたその言葉も、聞こえない振りをするに留めた。

 

 それからほんの一分程。

 歩は椎乃が涙を拭い終えるまで、うつ伏せの状態を続けることになった。

 

 

 

 

 

 

  あとがき

 

 どうも、昴 遼です。

 

 さて、やっと個人ルート進行へ向けて執筆開始です。

 正直小説でこういう分岐作るのどうなんだろう? なんて思うんですが、私にはノベルゲームを作る技量なんてありませんゆえw

 まぁ、文章だけでも楽しんで頂けたらと思います。

 

 さて、とりあえずこの話は読めば分かるように、梓ルートと椎乃ルートの伏線を張っています。

 つまりはこの先、二人のルートに分岐するわけなのですが。

 

 ……まぁ言わずもがなですね。グダグダです。

 お前は何が書きたいんだとか言わないでください……。

 私自身だってあいまいなんですよぅ……最初のお兄ちゃん発言とか(違

 

 でもまぁ、そんな感じに進行中ですが、どうか最後までお付き合いを……。




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