「てぇりゃぁっ!」

 

 教室のドアを開けると同時、隼人は全力で投球フォームに入る里奈を視界に捉えた。

 

「食らえ! いつかの恨みを晴らすべく拵えたこのカビの生えたカチカチのパンッ!!」

 

 そして、何か所々緑色に変色した物体がその手より放たれる。

 とりあえず何でそんなものがあるんだろうとか、恨みっていうか自業自得じゃんとか色んなツッコミが頭に浮かぶが――とりあえず今やるべきことは一つ。

 

「そんな物投げんなぁっ!」

 

 容赦無く振り上げた鞄で、そのパンを打ち返した。

 もちろん、ど真ん中のクリーンヒットで。

 無論それはそんな恐ろしい物体に触りたくなかったからというものあるが、どちらかといえば大きな理由は、

 

「え、う、うわぁ帰ってきたーッ!?」

 

 やっぱりまぁ、この馬鹿な少女をもう一度ぐらい懲らしめる必要性を感じたから。

 よって、見事に打ち返されたカビパンは、投げられた時の倍以上の速度をもって里奈へと返却された。

 

 

 

 とまぁ、賑やかな今日の学園生活はカビパンで幕を開けた。

 ……最悪な一日になりそうな幕開けだった。

 

 

 

 第十話 最悪な事態、束の間の平穏

 

 

 

「お前は、一体あんな廃棄確定の物体をどうやって仕入れてきたんだ」

 

 呆れ顔で言うのは、一部始終を見ていた夏だ。

 

「っていうか、よく入ってくるのが隼人って分かったよねぇ」

 

 で、こちらは苦笑を浮かべながらも春名が言う。

 しかし里奈は、その言葉にきょとんとした表情をして、

 

「へ? 別に誰でもよかったんだけど?」

 

 そんなことをのたまった。

 瞬間、教室内の空気が凍る。

 

 一歩間違えれば自分が被害にあったのかという恐ろしい想像が、クラスメートの間を走っているのがよく分かった。

 つまり、あの台詞もその場での思いつきだったのだろう。

 

「お前は……」

 

 そんな教室内の空気を感じ、そして皆の意志を代弁せんがために、祐人はゆらりと立ち上がる。

 そしてと抵抗も許さぬ速度で里奈の頭をがしっと掴むと、

 

「少しは常識を弁えろっ!!」

 

 全力で、握った。

 もう頭蓋骨ごと握り潰す勢いでだ。

 

「ひにゃぁーッ!! 痛い痛い痛いぃぃぃぃーッ!!」

 

 里奈が全力で悲鳴――どちらかといえば絶叫――をあげる。

 しかし、あんな発言の後だ。

 この教室に、もはや彼女を助けようとする味方はいなかった。

 

 それどころか、既に涙目になりながら全力で抵抗をしている里奈を冷たい目で見やりながら、

 

「「「「「自業自得」」」」」

 

 いつに無い統率をそこに築いていた。

 

「理不尽だぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

「だから少しは反省しろーっ!!」

 

 ただ一人、哀れな少女の絶叫が校舎中に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

「これから皆で商店街に行くんだけどお前達も来るか?」

 

 和谷屋がそう声を掛けてきたのは、放課後、教室を出ようとした矢先だった。

 皆というのは例によっていつもの面子であろうが、残念ながら今日だけはその誘いに乗るわけにも行かなかった。

 普段なら少しは教室で談笑するところを、今日はすぐに出ていこうとしたところにその理由はある。

 

「ごめんね。ちょっと今日は私達用事があるんだよ」

「ん、そうか? なら仕方ないな」

 

 同じ理由で隣にいた春名が片手を『ごめんね』の形に挙げて言うと、和谷屋はあっさりと引いた。

 まぁ彼の性格上、何かを強要するというタイプでは無いし当然の反応だろう。

 

 で、友人の誘いを断るほどの用事とは言わずもがな、現在羽水家にてお世話になっている家で少女の件だ。

 先日話していた警察への捜索届けの確認に加え、比奈の着る服などを調達しないといけない。

 もちろん、捜索届けが出されていて今日のうちにでも両親が見つかればいいが、おそらくはそう都合よくはいかないと隼人達は踏んでいた。

 だから、そういう場合を想定すれば幾つかの日用品などが必要になってくるのだ。

 

「にしても、麻子さんも何ていうか、凄いよな」

「あーそれは私も思う」

 

 当然のことだが、そうなればそれなりの金額が必要になるのは当たり前のことだ。

 しかし麻子は、その決して安いとは言えない金額をあっさりと隼人達へと渡した。

 それも多分、麻子自身の貯金から。

 もちろん隼人達も少しは出すと言ったのだが、それは麻子にやんわりと断られてしまっている。

 

 麻子曰く、

 

『子供の世話を見てあげるのは、大人の役目ですから』

 

 とのことらしい。

 どうやら、麻子の中では春名達はまだまだ大人では無いらしい。

 

「まぁ、とりあえず俺達は俺達のやれることをやろう」

「そうだね。えっと、先に警察?」

「だな。まさか買い物袋を下げて行くわけにも行かないだろ」

「あはは。それもそうだねー」

 

 学園を出て、二人はひとまず駅の方へと歩を進めた。

 この街の地理がまだ曖昧な隼人は知らないが、どうも最寄の警察は駅前にあるらしい。

 まぁ言葉だけで言われると迷うのは確実なので、こうして春名が付き添っているわけだからそんなことを知ったところでどうもならないのだが。

 

「隼人君もさ、もう少し地理に強くなった方がいいんじゃない? 毎度毎度迷ってたら、就職した後とか絶対苦しくなると思うんだけどさ」

「『地理』には強いんだよ……弱いのは『地図』。下手すれば持ってても迷う」

「うわー……典型的だー」

「言うな悲しくなる……。俺だって何とかしたいけど、苦手分野って無くならないから苦手って言うんだし」

 

 事実、世の中には全てが出来る完璧人間なんてほとんど存在しない。

 だがそれが本来は普通であり、故に逆を言えば一つや二つ苦手なことがあっても責められることではない。

 

「まぁその内に慣れてこればいいと思うけどね」

「同感だ。今は――まぁ今も不便だけど……気にしたって仕方ない」

 

 半ば、自分に言い聞かせるような形になってしまったが気にしない。

 気にしたら負けだと思うから。

 

「何に負けるの? 隼人君」

「地の文に突っ込み禁止」

 

 

 

 悪い予想、もしくは予感というものは等しく当たることが多い。

 だが逆に、『こうなって欲しい』という希望などが当たることはあまり無い。

 それは、人が思う希望はあくまで『確率は低いけどこうなるのが最善だ』と思うことが大半であり、そしてここは漫画などの世界ではなく現実だからだ。

 その低い確率は当然当たりにくい。

 故に今回も、その希望が外れ、悪い予感が当たった、ということになるのだろう。

 

「捜索届けも無し、身元の確認も難しい……か」

 

 それが、警察からの答えだった。

 

 届けが無い以上、警察も比奈のために動くことは出来ない。

 だから当然、比奈の身元の確認などをすることも出来ないらしい。

 

 つまり――状況は最悪な方向で、完全に手詰まりとなってしまった。

 

「困った……ね」

「あぁ……」

 

 そんな短い言葉で表せる状況でも無いのだろうが、二人は少なからず困惑していた。

 これからのこともそうだし、何よりも――比奈のことも。

 

「……あの子が、何をしたのかな」

 

 春名は呟く。

 

 比奈はまだ子供だ。

 それなのに、家出を決意する程の事情を抱え、捜索届けが出されることも無く、記憶までをも失ってしまった。

 それだけではない。

 彼女は下手をすれば、路上で餓死していた可能性だってあるのだ。

 あの時は自分達が見つけることが出来た。

 だが――そうでなかったらと考えるだけで、恐ろしくなる。

 

「ねぇ、隼人君。私達はどうしたらいいんだろう?」

「……分からない。俺達に何か出来ることがあるのなら、それをするしかないんだろうけど」

 

 答えは浮かばない。

 

 こんな悲しすぎる事実を受け入れるしかないのだと分かった今、一体自分達に何が出来ると言うのだろう。

 あの子に――比奈に、一体何をしてやれると言うのだろう。

 

 答えは、浮かんではこない。

 

 

 

 

 

 

「そう……。ありがとうね、二人とも」

 

 事実をありのままに告げると、麻子は悲しそうに微笑んで二人にそう言った。

 

「お礼なんて言わないでくださいよ……。俺達は、何もしてない」

「いえ、辛い役割を頼んでしまったのは私ですから」

「お母さん……比奈ちゃん、これからどうなるの?」

 

 やはりまだ困惑してるのか、それぞれの会話には微妙なズレが生じてしまう。

 だが、そんなことなどどうでもいいと思えるように、全員の口の動きが止まってしまう。

 

 『どうなるの?』、その言葉が何よりも重かったから。

 

 誰も何も言おうとはしない。

 ……いや、何も言えない。

 この場で思いついただけの無責任な発言が、この状況で出来るはずも無かった。

 

「あ、お帰りなさい」

 

 とてとて、と。

 そんな状況を知るはずが――いや、知っても分かるはずの無い比奈が玄関に姿を見せて、咄嗟に皆は取り繕ったような笑みを浮かべた。

 

「ただいま、比奈ちゃん」

 

 が、幸い比奈もそこにある違和感に気付くことはなかったのか、そんなただいまの挨拶を笑顔で受け止める。

 だけど……今だけはその笑顔が――辛い。

 

 羽水親子がそこでも笑みを崩さなかったのは、二人の持つ強さかあるいは――それ以上の悲しみのせいか。

 それは隼人には分かりかねたが、とりあえずのところは比奈にはそれがバレることは無かった。

 

「さ、とりあえず二人とも着替えてらっしゃい。ここで話してるのも変でしょう」

「あぁ、そうさせてもらいます」

「じゃあ比奈ちゃん、また後でね」

 

 麻子が機転を利かせてくれたおかげで、その場は何とかやり過ごすことが出来た。

 が、さすがに何度もこうはいかないのも確かだろう。

 

――隠し切れることじゃない……か。

 

 近い内、やはり真実を話す必要はある。

 だが今は――せめて、束の間の平穏を。

 

 そう心から願った。

 

 

 

 

 

 

「比奈ちゃんを、家に迎えようと思うんです」

 

 そんな言葉が麻子から放たれたのは、翌朝の食卓の場でだった。

 いつもより三十分ほども早く麻子が隼人を起こしにきて、この話を持ち出してきたのだ。

 

 だが当然、前日にはそんな話は微塵も出ておらず、それを今始めて聞いた隼人の反応と言えば――。

 

「……はい?」

 

 だった。

 

 まぁ当然ではある。

 麻子もそれを分かっているからか、隼人に対して一度苦笑を浮かべた。

 

「昨日の間に考えたことなんです。捜索届けも出されないような現状だと、やっぱり比奈ちゃんのご両親を探すことは難しいと思うんです。例え万が一見つかったとしても、それは比奈ちゃんの幸せとは限らない。だから、それならこの家で、養子のような形で比奈ちゃんを引き取った方がいいと思って」

「……ちょっと待ってくださいよ。それって、そんな簡単に決めていいことなんですか? というか、そもそも何で俺にそれを。春名だって、この家の家族なんですよ?」

 

 麻子の言っていることは正論だった。

 家出、それも計画書なるものまで作って、しかも行き倒れすらしてしまうレベル。

 そんなことを比奈のような年齢の子供が考える家庭環境で、さらにはそれを裏付けるかのように提出はされていなかった捜索届け。

 麻子の言うように、そんな家族に比奈を返していいとは思えない。

 だが、だからと言っていきなり家で引き取る、という考えはあまりに簡単すぎると思ったのだ。

 それも、何故か血の繋がった家族である春名を差し置いて、自分にだけ話して。

 

 麻子の行動は、いつもの彼女と違っておかしな点だらけだったのだ。

 抗議もしたくなるのも当然だった。

 

 だが。

 

「春名に話さなかったのは、あの子は優しすぎる所があるからですよ」

「でも、節度はあると思います」

「そうですね。ですけど隼人さん? あの子に私が今の話をしたとして――否定したと思いますか?」

「……それは」

 

 即答はできなかったが、答えは当然ノーだ。

 春名は優しい。

 だからこそ、一人の少女が不幸の道を進む可能性があるとして、それを認めることができるはずは無いのだ。

 出会って一ヶ月と経たなくても分かる。

 彼女は、そういう子なのだ。

 

「隼人さんに話したのは、そういう理由です」

「……でも、それでももう麻子さんは答えを出してしまってる。だったら意味が無いじゃないですか」

 

 そう。

 麻子がそう言葉を並べたところで、一番初めの言葉で彼女が答えを出していることは分かっているのだ。

 それなのに麻子は、春名は優しすぎるからと言ってこの場に呼ばなかった。

 ……何かが、おかしいのに。

 

「意味はありますよ」

 

 だけど麻子は、ただただ優しい笑みを浮かべていた。

 

「私にとって、春名はもちろんのこと、隼人さんだって家族の一員です。そして、同時に私の子供同然でもあるんですよ」

「それは、嬉しいですけど」

「子に責任を着せる親は、普通はいませんから」

「……」

 

 言葉を失った。

 そして同時に――悟る。

 

 あぁ……そうか。

 やはり麻子は、いつもの麻子だった。

 

「一番優しいのは……麻子さんじゃないですか」

 

 子に責任を着せない。

 つまりそれは、麻子自身が全ての責任を持って比奈を預かることを決めたと言うことだ。

 

 春名がここにいれば、麻子の言葉に賛同しただろう。

 そうなればその時点で賛同した春名にも責任は生じてしまう。

 麻子はそれを考えて、春名を呼ばなかった。

 

 隼人がここにいなければ、麻子の考えを誰も否定できないだろう。

 そうすれば隼人は、もし何かがあった時にこの時に麻子を止めていれば、という責任を感じてしまう。

 麻子はそれを考えて、事前にここで隼人に言い、そしてその隼人の考えを聞き出し――敢えて蹴った。

 

 それぞれが――隼人と春名に責任を負わせないために。

 自分一人が、全ての責任を負うために。

 

「俺は、否定しましたからね?」

 

 そしてそれを分かってしまったから、隼人はそんな台詞を言った。

 だけど麻子はそんな言葉に困ることも無く――。

 

「はい」

 

 それどころかいつものような優しい笑みすらを携え、頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

  あとがき

 

 どうも、昴 遼です。

 

 前回に引き続いての唐突シリアスルートをお届けしました。

 どうにも、コメディー一筋だと辛いものを感じ始めたので、こういうのも挟んだ方がいいかな? と思ったわけですよ、はい。

 

 ……っていうかこういうの書くと思うんだけど、身元不明の子を養子にするのって簡単じゃないんだろうなぁ。

 よくドラマとか漫画とか小説では見る設定ですけどねぇ……実際にやるとなると……w

 

 まぁ、でもこれは小説ですから、ご都合主義(ぁ

 

 

 

 そんなわけでようやく比奈も羽水家の仲間入りです。

 十話目って考えると結構短いかもしれませんが……でも話はまだ何とか形を保ってそうなのでよしとしましょう。

 

 

 

 しっかし……相変わらず時間の流し方が下手だなぁ、自分。




目次へ